ねむいつらいかえりたい

20代も末だけどいろいろがんばるはなし

家族で暮らすということは

どういうことなんだろう。

周りの友達はどんどん新しく家庭をつくっていく。それを信じられない目で見てる私は、確固たる結婚願望はありながらも他人と暮らす自分を想像することがまだできないでいる。

実家に帰ってきて、家族はありがたいと感じながらも、日々鬱陶しいことは多い。まずこれを書こうと思ったきっかけが、祖母のトイレットペーパー消費速度が異常に早いという愚痴からだった。本当にどうでもいい、生活様式の細々とした違いが、摩擦を生じていく。

もともと、私の家族は2世帯同居で、母方の実家に住んでいた。祖父が亡くなり、同居で肩身の狭かった父が家長となり、今度は逆に祖母の肩身が狭くなった。家族は、死や生、結婚や離婚、進学や就職といった個人のライフイベントによって常に形を変えていくもので、いくら「世帯」という法律的な用語があっても、それを「家族」という枠組みで縛り続けることは難しい。

 

小津安二郎の「東京物語」という映画では、母親の葬式が終わり早々に東京へ帰っていく兄姉を見て、京子が「他人同士でももっとあたたかいわ。親子ってそんなもんじゃないと思う」という。それに対して原節子扮する紀子が、「あたしもあなたぐらいの時にはそう思ってたのよ。でも子供って大きくなると、だんだん親から離れていくもんじゃないかしら。お姉さまぐらいになると、もうお父さまお母さまとは別のお姉さまだけの生活ってものがあるのよ。誰だってみんな自分の生活がいちばん大事になってくるのよ。だんだんそうなるのよ。」と返す。私も父方の祖母が亡くなったときにこの京子と同じようなことを感じて、母にすすめられてこの映画を見た。そのときは京子と同じように、「そんな風になりたくない」と思ったものだった。ところが、今私は紀子の「だんだんそうなるのよ」という言葉を自分に言い聞かせている。

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ではなぜ「家族」という枠組みで縛り続けることができるのかというと、それは愛情があるからだ。離れても遠くてもいつだって人々は家族のことを考える。そしてその枠組みはどんどん多様化していっている。たとえば、最近話題になった映画でいうと「チョコレートドーナツ」や、大阪市で男性同士のカップルが里親となったことなど、性別や血縁は家族を縛らない。

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でも、愛情だけだろうか。「家族」が誰かの人生に影を落とすことは?愛情でつながっているはずの「家族」という枠組みのなかでがんじがらめになって抜け出せなくなることは?

私自身、父親に対しては複雑な気持ちがあり、血縁と愛情だけで娘をやっているわけではない。でも世間一般的な「孝」に反した本当の気持ちは誰にも言いたくないし、これからも言わないままだと思う。ただ、たとえそこに愛情がなくても、もはや何の感情も持てなくても、一緒に暮らしているという情だけで成立する「家族」もあると思う。幸せいっぱいでなくても、私は「家族」という在り方まで否定する気持ちにはなれない。そしてもしそんな家庭で過ごしてきた人がいたら、愛情がなくても情だけは信じてほしいと思う。「家族」の姿が変わっても、中身がボロボロでも、情だけでつながるものでもそれはきっと家族で、たとえ相手に複雑な感情があって、本気で恨んだことがあっても、相手を心配したり労わったりすることは自分に嘘をついていることにはならないということを。

何を書きたいのかわからなくなったけど、たぶん私は、心からもう無理と思って逃げた父親が病気になってその看病のなかで相手を心配して泣いたり労わったりした自分が信じられなかったんだと思う。でもそれは家族として当たり前のことで、もう無理と思った昔の自分の気持ちも嘘じゃない。そういう家族もあるんだ。

いつか私も、トイレットペーパーの消費速度なんて気にしないで、愛情だけで家族がつくれるんだろうか。そしてそのいつかはいつかじゃなくて間近に迫っているということを、いくら考えても現実として受け止めきれないんだけど。